湯治1/2
心身が死んだ。不本意ながらここ1年、心身ともに限界を攻め続けたためである。
幸い、心身を犠牲にしてまで追い求めた目標は、ほぼ実現することができた。そして(1つ目のカジュアルな)死を超えて、おれは「湯治」に出会う。
現代人はピリオドを跨ぐときに「湯治」に出会う。ピリオドの手前で以下の4点を教訓として得た。
①自分はハードワークを正気で実現することができない。正気を超えた時、カジュアルな心身の死を経験する。
②心身が死ぬほど努力をすべきでない。やばい。
③心身が死ぬほど努力をせざるをえない環境に身を置くと、心身に加えて何かがさらに死ぬ。これが二度目の死である。
④二度死ぬのは、ほんまやばいで。
⑤転職先の労働条件はしっかり調べたほうがいい。
幸い、死ぬほど心身がヘルだけど二度目の死の前に休みを獲得した。これが獲得できなければいろいろ合法的に刺しにいくつもりだったが、刺さずにすんだ。カジュアルに死んでいる人は職場にたくさんいた。とにかく俺はカジュアルな死だけで済んだ。二度目の死を避けることで刺さずに済んだ。紛争は無駄である。無駄なんだ…無駄だから嫌いなんだ無駄無駄…
とはいえ、一度死んだ俺の自律神経は休みとなってもやばいばばであり、興奮状態が続いていた。この休みをどう過ごせばいいのか。
答えは文頭に戻る。「湯治」。
「湯治」は近代文学の巨匠たちがやるやつであるらしいということは知っていた。なんか温泉街でまったりするらしい。でも、それはあまりにも古い知識だ。そこで、ネットサーフィンでその知識を更新することとした。歴史と現代の交差である。死は歴史を更新する。
ネットサーフィンで「湯治」について、概ね以下のことがわかった。
①温泉に長く浸るとなんか病が癒えるらしい。
②「湯治」をするやつは①を期待して一週間以上温泉に浸るのがスタンダートだったっぽい。
③②の期間の長から滞在費用を抑えるため、湯治するやつは自炊したりするっぽい。
④「湯治」ができるのはだいたい僻地である。
⑤④みたいな場所は僻地であれなので、歴史が歴史のまま残っている部分があり、いまだに「湯治場」と呼ばれる場所では混浴が多々ある。
⑥しかし、そもそも①は怪しいかもしれない
結果、とにかく「湯治」に行ってみることにした。①の効用はしらんけど、とにかく人がいないところでお風呂に入りたかったからである。ガチ勢向けのところもあるけど、怖かったのでそこは避けた。
考えた末、おれは新人向けの「湯治」を行うべく岩手行きの新幹線の乗車券を購入する。そして、かばんに養命酒とノンアルコールビールを積んで、「湯治場」へ行くために東京駅に向かう。
車窓が好きだ。飛行機は出発地と目的地をワープで飛ぶようで好きではない。都市と都市の間の田舎を眺めることで自分が移動をしていることを感じられる。北と南を移動する中で感じられる季節感が好きで、旅行は鉄道でするようにしている。
ぼんやり外を眺めてたどり着いた岩手県で、おれは「湯治」という未来を経験する。結論から言うと「湯治」は実によかった。
あまりにも長くなったので、文章を2つに分けます。