34歳からはじめる自由帳

あれが好きななにかについて言葉にするブログだわんわん。チャームポイントは誤時脱字。

仙台市若林区荒浜

 東日本大震災が起こってから、おそらく8回くらいは仙台の荒浜に行っている。8回目は仕事で訪れた。

 

 大学を出た後の仕事をどうしようかと思っているときに震災が起こって、役所で働くことを選んだ。その後、辞めたけどね。そこから偶然が偶然を生んで今の仕事についてる。

 

 仙台はいいところだ。とはいえ、震災が起こるまで一度も行ったことはなかったんじゃないかな。震災発生時、学生だった俺は記者志望だった。でも、震災を気に公務員を志望するようになり、その後、結果的に公務員をやめた。そんな土地を役所をやめた後の転職先の業務で踏みしめることになった。

 

 繰り返しになる。2011年の3月11日に俺は東京で学生をしていた。地震の発生時には、たまたま揺れを吸収する椅子に座っており、おかげさまでかなり震災の被害を甘く見積もることになる。そんなに揺れてないじゃないか。

 

 ちなみにこの椅子はオードリーが調子に乗ってお昼の生放送でぶっ壊した椅子です。

 

 そんな俺視点では微妙な揺れがあった日の翌日の朝刊では、日経新聞が東北の甚大な被害を伝えていた。就活生だったおれは、背伸びして日経新聞を読んでいた。

 

 理解不能なために長官の一面を適当に流して、もともと予定していた東京から山梨へのドライブにでかけた。往路では震災の話になったけど、俺はことの重大さを把握していなかった。

 

 ドライブは楽しかった。ワイナリーに行って、ほったらかし温泉にも行った。ほったらかし温泉の休憩室でみたテレビでは、福島原発から白煙が上がいた。

 

 山梨からの帰り道、東京への復路では皆が無口になった。誰も喋らない車は高速をひたすら走った。俺たちの車の隣では京都市から被災者向けの物品を運ぶトラックがちょうど同じ速度で走っていた。

 

 帰郷後、どうしても現地が見たくて、震災の3日後には茨城県大洗町になんとか足を調達して向かうことになる。大洗町では信号機がその体躯をひしゃげ、まちなかにはコンテナが散乱していた。おまけに津波が運んできた土砂が乾き、ホコリが舞って非常に不快であった。でも、被災地を見て、なにか自分も社会のために出来ないかと思った。

 

 大洗町でなりたい自分の姿に迷ってその3か月後、俺は内定がないまま仙台のボランティアセンターに行くことになる。ボランティアセンターの担当者の指示に従い、海辺で人がたくさんさらわれて死んだ仙台市若林区荒浜でボランティアをすることになった。ビーチの隣の地区だった。

 

 荒浜では、広大な田んぼと、それでも人が生活をするために開発した土地がめちゃくちゃになっている様を目の当たりにする。荒浜は人の生活の痕跡と死、濃厚な海の匂い、が同居する土地であった。

 

 基礎部分を残して建物がごっそり喪失したさまを目の当たりにした。ビーチで海を眺める親子の背中を見た。人が生きる場所は当たり前にあるのではなくて作っていくものだと強く思った。3か月たっても死の痕跡がそこら中に残っていた。この経験が自分の生き方に大きな影響を与えている。

 

 冒頭の話に戻る。仕事で荒浜にいった。荒浜にあった死の匂いの象徴だった学校は、震災を記憶する施設となっていた。震災は"記憶"しなければならない"歴史となりつつあった。人の生と死の匂いは何もしなければ、きっと忘れられてしまうのである。

 

 海辺の駐車場にはやんちゃそうな男の子が乗る車が駐車場に乗り付ける。男の子たちは季節外れの海を楽しんでいる。俺がかつて見て感じた感情とは全く違う景色が見えるんだろう。

 

 そういう光景を見ると思う。俺は年をとったのだと実感する。震災からたった10年しかたっていない。でも、たった10年前の出来事を歴史として受け止める世代が(受け止められる世代が)今、生きているのだと。

 

 おれはがっつりおっさんなのである。もうおっさんだから、次の世代のためになんかやろうと思った。かつて、他人のためにまちづくりの仕事をしようと思ったように、次の世代、というか後輩のために仕事をする世代なのだ。

 

 荒浜の海岸で『歌うたいのバラッド』を聞く。おれはもう歌を聴く側ではなくて、歌う側なのだと思う。子供たちが次の世代に善意を引き継いで与えられるように。

 

 そう思った。ちょっと前だけど、そんな話。

 

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