34歳からはじめる自由帳

あれが好きななにかについて言葉にするブログだわんわん。チャームポイントは誤時脱字。

精神分析的心理療法

 その昔、大学の心理相談室でカウンセリングを受けていた。当時、30歳になったおれは自分の生き方に行き詰まっていて、結局いろいろな本を読んだりしてみて臨床心理学的援助という手段を選んだ。まあ、30歳以降の自分の生き方が全く見当もつかなかったのです。

 

 その歳までml/円の思考で毎日酩酊するまで飲んでいたし、超刹那的に生きていた。よく死ななかったな。交際費というか飲み代の支出に占める割合は半端なかった。人間関係の振れ幅も極端で、同時に自分を殺して生きていた。

 

 それでも幸い借金をしたり仕事をやめないくらいの理性は残っていたので助かったけど。30歳はちょうどいい区切りだし、その年で死ぬなんてことを根拠もなく漠然と思ってたんだよね。平たく言うと、病名がつかないけどネットスラング的には病んでいたんだろう。

 

 さて、そうして行き着いた臨床心理学的援助、というかカウンセリングの最初の場では、ここに来るまでのこと、どんな生育歴だったか、これからどうしたいかということを聞かれた。そういえば、その場では女性関係を一切話さなかった。うん、これは今でも引きずっている苦手分野だ。おまけに、これからどうしたいかという質問にはしみじみと「幸せになりたい」と答えたと思う。不適応が極まっておる。

 

 初回の面談を終わり、いざカウンセリングが始まると、「あなた自身のことについて話してください」とぽつりと言われるだけである。まじか。始めた当初は先生に聞きたいことがあったので、自分はこういう状況なんでしょうか、ああなるんでしょうか、と聞いたところ、要約すると「ここはお前の疑問に答える場じゃなくてお前が自省をする場だから勘違いすんな」的なことを優しく言われた。

 

 なるほど、そういう方法なのねとその時は我慢したけど、今なら質問に答えろバカと思う。そして後にこれが精神分析心理療法と呼ばれるものだと知るようになる。とはいえ、後々この発言は効いてくる。なぜなら、この場が何を言ってもとにかく否定もせず受け入れてくれる場であるというとても不思議な経験をするからである。

 

 それに加えて本当に非日常な経験をした。

 

 例えば、

 俺「今週こういうことが嫌だったんですよね」

 先生「それはどんなとこがいやだったんですか?」

 俺「うーん、自分が尊重されていない気がするあたりが不愉快なんですよね」

 先生「昔お母さんとの間で感じたことなのかも知れませんね」

 俺(衝撃的すぎて頭真っ白、あるいはどうしようもないほどの純粋な不快感を感じて言葉にならない。)

 この5行のやり取りを、行間のやり取り、特に独白マシマシで週2回、計100分かけてやります。

 

 この先生の「かも知れませんね」の前段が自分にとって心の傷になっているような過去の出来事で、思い出したくない、向き合いたくない、認めたくない出来事なんですけど、そう指摘されるころには先生に対して心のパンツを脱いでいるのでぶっ刺さるわけです。

 

 おれがうけたカウンセリングは、そうしてぶっ刺さる経験を重ねることで、自分の身の回りに起こる望まないこと、不快なことへの耐性が上がっていくというプロセスなんです。

 

 だから、死ぬほど辛い。家帰って便器に嘔吐きつづけることもあるくらい精神的に動揺した。

 

 このプロセスを3年半続けた。酒のんで酩酊してたのは今置かれた環境との関係でやりきれない気持ちをごまかすためだったので、これもかなり改善した。金銭的な制約もあって中断し、やりきったとは言えないまでも一つだけ自信をもって言えることがある。

 

「ysknは続けうるその最後まで、自分の見たくない感情や事実から目を逸らさなかった。少なくともその点においては誠実であり続けた。」ということです。

 

 とても貴重な経験だった。でも、誰もが事実と向き合えるわけではないということを忘れてしまうと、この貴重な経験は他人へのおせっかいになってしまうので気をつけたい。

 

野の医者は笑う: 心の治療とは何か?

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  • 作者:東畑 開人
  • 発売日: 2015/08/20
  • メディア: 単行本