34歳からはじめる自由帳

あれが好きななにかについて言葉にするブログだわんわん。チャームポイントは誤時脱字。

「女子校というジェンダーロールのない自由な空間」

 

 うぃー!酔っ払ってます!!

 

 振り返ってみると女子校出身者、かつ男性兄弟がいない女性とばかり付き合ってきた人生だった。付き合わなくともいい感じになるのも同様の人たちばかり。これはなぜなのだろうかと真剣に考えたことがある。

 

 とりあえず思いついたのは女子校とは何かという疑問だ。女子校について書かれた本やインタビュー、ネットの記事なんかを読むにつれて分かったことがある。おれは性別役割分断が苦手なのだし、女子校出身者のある一部はそういう感覚を、嫌いとは言わないまでも日本社会における性別役割分担をそれほど強く引き受けないまま大人になるんじゃないかということだった。

 

 これは自分が持ち合わせている未検証の仮説なのだけれど、女子校出身者と共学経験者の間で、異性との間での基本的な役割分担の意識に差異をもたらすのは、「女性というジェンダーロールのない自由な空間」で思春期を過ごしたかどうかが大きいのではないだろうかと思っている。「女子校というジェンダーロールのない自由な空間」。うまい言葉だ。引用させてもらいました。

 

 おれの理解を大雑把にいう。総論的には女性が社会的に女性らしいとされているなにかっぽくなるのは、生育過程において男性との関係のなかでその役割分担を学習した結果なのではないか、ということだ。つまり、本質的に持ち合わせた自身の性別らしさが年齢を重ねるにつれて開花するのではなく、関係性のもとに違いを自覚し、その社会における性別役割分担を反映しながら自分らしさを形作っていく、ということなんじゃないかと思う。

 

 話が変わって男性の自分である。甲斐性がないというか、とても頼りがいがないんだと思う。ジェンダーロール上の男性を演じきれないというか。あんまり、おれについてこいという感覚はない。ないというか、同時にそういう感覚は好きではないと思う。

 

 こうした感覚を身につけたのは、頼り甲斐があり亭主関白であろうとした父への反発と、その反発をやり通して性別的な自分らしさを打ち立てる前に父が病で倒れたことが関係あると思う。つまり、おれからみると男性としてある種の見本となる父が、復古的な男性らしさを実践しようとしてしくじった風に見えるわけで、そんなおれが家族を背負ってやるみたいな気概は父の失敗をみると怖くてできない、というのが本音です。

 

 このようにして「こうしようじゃないか。安心しろ、おれについてこい」というよりは、「君は何がしたいの、そうか、そしたらおれはこう思っているからその気持ちを尊重しつつすり合わせよう」という有る種のなよなよした男性が生まれるわけである。

 

 でも、最近おれはそれでいいのかなと思ってる。いや、思ってるかわからん。いずれにせよ、目の前の人の感情を尊重することは大切だと思う。

 

 ところで男子校出身者の男性意識はどう理解すればよいのだろうか。

 

女子校あるある

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